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雑感日記

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カワサキファクトリ-OB会

『カワサキ』というイメージはバイクの世界で結構いいイメージで浸透しています。
マシンのよさももちろんあるのですが、カワサキ独特のファンが抱くイメージのなかには

『レース』と言う世界から、バイクの遊びの原点を見出したようなところもあって、
たまたまですが、カワサキの二輪事業を引っ張ったリーダーたちは、つい最近まで全てレーススタート時のレース委員会メンバー、さらにはそれを引き継いだ人たちの、『一種独特のカワサキのムード』
を持っています。

今回集まったライダーたちも、何もカワサキ1社の契約ではないのですが、みんなカワサキを故郷のように思う心情があるようで、何か不思議な糸で繋がっています。


今回、参加された全員が、NPO The Good Times のメンバーに参加されましたので、
叉、密接に仲間意識で繋がってゆくと思います。

今回どうしても出席できずに、取材依頼をタッチャンにされた二輪車新聞の衛藤さんも、NPO のメンバーですから、このブログもそのお手伝いの一つとして、書いています。
写真はNPOの副理事長のタッチャンが送ってくれました。
衛藤さん、青野ヶ原のもっと前からのカワサキとのお付き合いです。




★昨秋以来、キヨさんたちと計画したカワサキファクトリーのOB会が、
1月21日4時から有馬の泉郷荘で総勢25名が集まって20年ぶりに行われました。
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早速、その感想は雑感日記-1gooのほうに、アップしています。

この写真は、24名なのですが、モーターサイクリストの石井さんと二輪車新聞の衛藤さんに頼まれて今回は特派員で出席の渡部タッチャンがカメラマンとして抜けています。
カワサキは雑誌社と仲がいいのもその特徴の一つでしょう。二人とも翌日の三木セブンハンドレッドクラブで行われたゴルフも参加でした。

このブログも半分衛藤さんの記事のために書いています。
自分の記録のためにも確り纏めてみたいと思ってます。

★全回20年前に行われたOB会では末席であった星野一義と清原明彦が今回は主賓と主宰者でこの会の中心でした。50年近くも前、1963年5月19日、兵庫県の青野ヶ原にカワサキは初めてレース界にデビューしたのですが、その時のチームの中心高橋鉄郎さんやそのレースを走った飯原武志も参加です。
カワサキのレースのスタート時、既に世界的なライダーだった片山義美君がカワサキのレースを神戸木の実のライダーを送り込むなど手伝ってくれたのですが、今回は清原がその師匠を招待して特別参加です。

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これは20年前、前回のときの写真です。

★カワサキの単車事業を再建か撤退か63年にその調査をしていた日能が再建を結論付けた理由の一つに青野ヶ原のモトクロスに懸けた職場の末端の情熱があり、再建の条件に広告宣伝を本格的にやること、そのために当時の金で1億2千万円を3年間本社開発費で拠出することがあったのです、
私はその広告宣伝の担当に指名され、レースもその予算で運営されました。
そんなことで、カワサキのレース活動に参画しそのレース活動は結構裕福な財政状況の中贅沢に運営できたのです。

単車再建のスタートは新職制で1964年1月からスタートし、広告宣伝課もレース活動もその頃からスタートしています。
レース運営委員会が組織され、開発山田、営業苧野という両部長に高橋、大槻、田崎などの各部門からの委員で構成されました。私がその事務局でした。

20年前のファクトリーOB会はこのメンバーがみんな出席だったのですが今回は西海、苧野さんは個人となられ山田さんも高齢で欠席でしたが、高橋、大槻、古谷、平井、田崎(年齢順)と会社側も歴代のレース担当メンバーが前回に続いての出席でした。

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挨拶しているのは、田崎さんです。

★そんなことでカワサキのレースはモトクロスからのスタートです。当時はH,S,Yに勝てるものは何一つなかったのですが、モトクロスだけは全力投球でしたので、
1964年秋、10月10日、オリンピック開会式と同じ日に伊豆丸の山の全日本には4種目中3種目を制覇しています。山本、梅津、歳森、岡部、にベテランの三橋、安良岡の布陣でした。

翌月、11月8日、和歌山紀ノ川のレースには、練習中に指を骨折した岡部の代わりに、星野一義が岡部の名前で出場したりしたのですが、転倒脳震盪で救急車で病院に運ばれたりしました。
星野一義が初めてレース場を走った日です

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星野と歳森、杉尾のメカニックを永く勤めた広尾さんです。

★モトクロス界では、名前の知られたカワサキでしたが、会社からはロードへの参加は許されてなかったのですが、山本隆君がどうしても鈴鹿のジュニアロードに出たいと言い出して、当時工場にいた田崎さんがマシン2台を都合してくれて、それをリードレーサーに仕立て、鈴鹿MXに出場することにしてこっそり出たのですが、結果はホンダについでの3位入賞でした。1965年5月3日のことです。

その1ヵ月後、6月13日、正式にカワサキとして鈴鹿6時間耐久に3台のマシンを出場させました。
チーム監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎さんせした。このレースに歳森康師がパートナーに選んだのが金谷秀夫です。彼のカワサキの初レースでした。このレース岡部も飯原も走っています。

1965年は、カワサキもロードレース日本GPにも参加していますし、モトクロスは伝説のあのF21Mがデビューしています。
山本隆、歳森康師、梅津次郎。岡部能夫、星野一義のファクトリーライダーは文字通り日本最強でした。

秋の日本GPでは、金谷秀夫がA1RでヤマハのGニクソンとのデッドヒートで惜しくも2位でした。
ただマン島で藤井敏雄を亡くしデグナーと契約はしたが練習中の転倒でカワサキのデグナーは実現しませんでした。

★高橋、大槻、田崎、私などがカワサキの初期のレースチームに関係したのもこの3年間で、その後のチームグリーンなど、長くカワサキレーシングチームの面倒を見てくれたのが、
平井稔男君で今回の会合の司会で盛り上げてくれました。

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今回の主宰者清原明彦、キヨさん  手前が平井 右から山本、加藤、金谷、塚本、梁、安良岡。金子、

清原明彦、和田将宏から竹沢正治、杉尾良文さらには塚本昭一、梁明と歴代のチャンピオンを生み出しています。今回の一番若いライダーは梁君で一番先輩格は片山義美、安良岡健くんです。

カワサキがトライアルをやった時期があったのをご存知の人は少ないと思いますが、
山本隆と加藤文博の二人のライダーが支えました。
山本はその後MFJのトライアル委員長を長く勤めましたし、加藤文博はその後ヤマハに移って世界の頂点を極めています。

と書いたら、山本隆君がコメントで
『rfuruyaさん文中一部訂正させていただきます。
加藤文博の記録ですが、彼はKawasaki KT250で
1975年全日本トライアルチャンピオンを収めました。
その後カワサキで世界選手権にも参戦し、のちカワサキがトライアルから撤退後ヤマハに移籍しました。
真面目な加藤の事ですから(笑)』


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右から、岡部、星野、喋っているのが御大片山義美さん、歳森、飯原、藤原、渡部

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右から 広尾、清原、竹沢、司会の平井、 高橋、大槻さん

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一番奥が私、その左が和田将弘君です。


当日の宴会の写真など、60おじさんのブログ最高です。





★翌日はゴルフでした。
三木セブンハンドレッドクラブで、ここでもモーターサイクリスト、風まかせのプロのカメラマンが、コースに入っての写真撮影でした。
どんなな写真が雑誌を飾るでしょうか?

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私は星野インパルの金子豊、金谷秀夫君という特に関係の深かったメンバーとのラウンドでした。
キヨさんが、特に気を遣ってくれたようです。

★星野と岡部は、山本が案内して、昔星野が下宿していた先の世話になったおばさんに線香を上げたいと西新町の方を訪ねました。山本は星野を弟のように可愛がっていましたし、岡部もいい奴でしたから、3人は叉別のいい1日を楽しんだことと思います。


いい2日間でした。2年後に叉やろうと言うことになっていますが、どうなるでしょうか。
自分の記録として纏めました。
まだまだ、いろいろありましたので、別に叉纏めます。
by rfuruya2 | 2010-01-23 06:56