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雑感日記

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50年前のIBM、こんな状況でした

★昨日、gooのブログに、『自分史、昭和34年(1959)入社3年目』をアップしています。
まだまだ若く、新人のぺいぺいの時代でした。

当時熱中していた、会社での仕事、償却計算のIBM化のことなど書いているのですが、
翌年の日記帳の中から、当時のIBMのパンチカードがでてきました。
50年前、まだ日本でIBMなど、どこも使っているところはなかった時代です。
やっとナショナル会計機が計算機を発売する時代、手動のタイガ―計算機全盛時代でした。

(ずっと後になって、IBM社の研修があって、自己紹介でコンピューターに関係あることを何でもいいから喋れと先生が仰るものですから、この話をしたら、『10年間違っていませんか?日本にIBMが入って一般化したのは、東京オリンピック以降の事です。』と言われました。
確かに、調べてみると、日本IBM社の設立月日は昭和37年6月17日となっています。)


川崎航空機は米空軍のジェットエンジンのオ―バーホールをしていたので、空軍関係がIBM処理をしていたのです。

そんな時代、民間の事務にIBMを使ったのは、ひょっとしたら初めてだったかも知れません。
少なくとも、川航の中では初めてのことでした。
その当時はIBMもまだパンチカードシステムの時代で、このカードの中にパンチが入っていて、それに基づいて分類や計算がされたのです。

★自分史は、次回は昭和35年なのですが、このカードは35年の日記の中にありました。
gooの写真では、多分こんなに明確に出ないと思うので、今度書くであろうブログにリンクを貼るためにここににアップしています。

50年前のIBMカードなど、今は貴重と思いますので、興味のある方はお付き合い下さい。
入社3年目、1年間みっちり掛った大仕事でした。

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(クリックすると少しははっきり見えるかも知れません)

★コンピューターと言っても現在のモノとは別物と言っていいほど違います。
パンチカードシステムですから、この1枚のカードの中に入っている項目の作業しかできません。
カードの桁数には限りがありますから、コードは出来る限り短くする必要があります。

さらに、分類もこのカードをソーターを通して行うので、作業回数の効率化を図るためには、コードの設定一つにしても、今のように簡単ではなかったのです。

上のカードが財産物件の管理カードで、下は計算をするためのカードで、このカードにコード番号をパンチして穴をあけるのです。
技術的なことはよく解りませんが、アナが開いた所だけ電流が通って分類や計算ができる仕組みです。

このようなカードにパンチをする作業が大変で、そのためにIBM室には若い女の子がいっぱいいました。
それに、IBM室だけがエアーコンがその当時からあって夏でも快適でした。
そんなことも、この仕事に熱中した原因の一つかも知れません。

★このプロジェクトは、一般には経験者のいない未知の分野でしたから、IBMの担当者の久森君と私の二人だけで最後まで仕上げました。

技術的な事は勿論彼の担当ですが、一番時間がかかったのが、5桁の財産物件名コードです。
この5桁の中に、すべての財産計上品目が入らねばなりません。
『償却計算ができる範囲』を明石工場だけでなく、本社も、岐阜工場もすべて統一コードで纏めましたので、本社は兎も角、岐阜工場を説得するのが大変でしたが、コードNOそのものがよく出来ていましたので、その質が岐阜工場も納得させたのだと思っています。


★上の管理カードは、財産管理にかかわるすべての項目が入っており、確かこれを造ることにより従来の揃っていない財産台帳に代わるものとしたと思います。
その中で計算に必要な項目だけをコード化したものです。
そんなことで裏面には手書きでいろいろ書けるようになっています。

もう一つのカードは、実際に計算するためのカードですが、これは久森君が創ってくれましたので、詳しいことは解りません。

昔も今もそうですが、幾らやってもそんなに詳しく解らないことは、信用できる誰かに100%任せてしまいます。
会社に入っていろんな人とお付き合いができますが、(作業でのお付き合いはいっぱいありますが)ホントに一緒に仕事をした人は意外に少ないものです。
久森君は私より年下の高校卒の技術屋さんでしたが、よくできました。私が最初に会社で仕事をした人です。

彼がいなければ、この財産の償却計算は、1年で完成していなかったと思います。


★このプロジェクトを一生懸命やりすぎたためか?
出来上がった途端に、肺結核の空洞の治療のために、1年間三田の療養所に入院するハメになりました。
そんなことで、残念ながら一番最初の期末の償却計算がどのようなものであったのかは、見ていないのです。

1年後、退院する時には、償却計算のために大勢の人がいた財産課は人が極端に減っていました。
私の復職先は、そんな財産課ではなくて、始まったばかりの二輪事業の単車営業掛でした。
まだ部でも課でもなく、発動機営業の一掛でしかありませんでした。

それから、ずっと二輪一筋の道をあるくことになりました。
ある意味、自分の進路を自分で決めた、『財産物件償却計算のIBM化プロジェクト』でした。
by rfuruya2 | 2010-11-17 06:47